小説チックにまとめようか迷いましたが

まぁどっちでもいいか

むしろ、語りのほうなのかもしないとおもい

 

昭和のアニメにて、ご飯を食べるシーン

の動画をみましたから、感想をアウトプットしたいと思います。

 

感想と言うか

そこで自分なりにひらめきじゃないけど

感想と言うか

 

感じることがあるのですね

それを放出しておりますブログですねはい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ただ、もくもくとご飯を食べるシーン

まぁされどアニメとしても

それは、現実を通して描かれたシーン

 

囲炉裏を囲み

行儀よく正座をして

ご飯をたべる

 

 

 

 

 

それを見て頭をよぎったのは

おおすぎる

ということです

 

 

「おれはぁ!!!ミニマリストだぁぁああ!!」

なんて、影響されやすいわたしですから

この人の良いところリスペクトしてぇ!!!

となるのですよ

 

結局のところ100%そうではなくて

20%ぐらいなんですけどね知らん。わからんですその数字とかは日による。

 

 

 

 

 

 

 

熱中する

とか

集中する

とかって

 

おおいと

欠けてしまう気がします。

 

 

 

児童に、「教室の外を出たら廊下を右に進んで2階に降りて自分の机に座ってください」

っていうより

「①教室の外を出たら②廊下を右に進んで③2階に降りて④自分の机に座ってください」

④の行動を一回で伝えるのではなく

「①教室の外に出てください」

「①廊下を右に進んでください」

「①2階に行ってください」

「①自分の机に座ってください」

とすると間違えもない

なんかこれは昔教科書に書いてありましたね

 

 

 

 

 

テニスでも

いくつも意識を置くのではなく

ひとつだけ意識をもってくださいとします

 

わたしは、ばーっと話ちゃうので

邪魔しちゃってるんですが

まぁどれか一個だけ拾ってください的なスタンスで

それでも来てくださる方々ありがとうございます。

として

 

 

 

 

 

 

それは大人も同じであれば

なにか悲しいような気持ちが出てしまったのです

 

けれどもほんとに今思ったことは

コンピューターと一緒で

人間の脳も同時に処理する能力が上がれば

2,3つ同じ熱量で集中できるようになりますかね

 

 

なるほど。(自分で突っ込んじゃったよ!!!!!!!←ツッコミ太郎さん)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なにが悲しいって

人と人との結びつきが薄れちゃうんじゃないかなって。

そういう話っす。

 

 

 

 

 

そんでさっき、

炊き出しボランティアの人にキレてかかるホームレスの方の動画も見たんですね。

 

自分から向かっていったというか

たまたまあったんで

 

始めは、わたしもそういうフィルターを通してみてしまったのです。

キレるぐらいなら炊き出し来るなよ。

 

 

 

 

 

 

 

最近多いですよね

少し怒り狂った人の動画とか

ドライブレコーダーの動画とか

 

 

 

正直、その動画を見たとき

わたしは自分が世間に発信していることの大変さを感じました。

 

 

 

 

 

 

 

わたしは、誰にでも価値があると思っています。

その理由は、精神論ではなく

それぞれが先祖を持ち

命をバトンをつないできた

そしてそのバトンは先へ受け継がれるわけで

未来には、あなたと同じような境遇に合う人がいる

 

だから、その経験をうけついでほしい。

 

そして、誰にでもいいところはある。

なぜなら、表裏一体だからです。

 

ワガママばっかりで生意気な人は

自分を殺していない。

 

逆に大変やさしく周りに気を使えるひとは

気苦労が多い。

 

 

 

 

 

 

 

 

という考えでいうと

誰しもに価値があり

誰しもとおともだちとなりたく

そのために誰にでも合わせられるよう価値観を吸収したい

そのために自分の軸を持つ必要がある

 

 

 

 

 

 

このボランティアに来ている方はナゼ怒っているのか

その理由も知らず

じゃあ来なければいい

 

この人は一体何をしているのか

失礼な言い方をすると、動物に見えてしまった。

 

嫌われてもいいんで言いますけど。

反感をかった場合は

不快にさせて申し訳ないと謝ります

ただそれだけです

自分の行動を改めるつもりはありません

改めるべきだと自分の腹に落ちたら、改めますが

 

 

 

 

 

その一人が動物だと思ってしまったとき

もっと世の中には、そのような方がいる

 

なら、わたしの主張とは一体なんなのか

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

わたしは勝手に思っています

けれど人はそれを偽善と呼ぶこともあるでしょう

その感想にとやかくいうつもりもありませんが

心のどこかで自分は、客観的に見て、良いことを言っている

という想いがあります

 

その点を見透かされて偽善と言われれば

たしかにその通りでしかありません

 

わたしも人間であり動物なのです

 

わたしはその動物の点をひょうげんだなんだ

肯定して、ブログで吐き綴って

自分を知ってほしいなどといって

ツイッターなどで自分アピールをしている人たちと

何も変わらないのでしょう

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

だがもし

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

もし、わたしの主張が

科学的にというか

人が見て偽善だと捉える範疇を超えたら

まぁそれは行動で示すしかないと思っていますが

そこには大変な価値が生まれ

わたしはそれにとても感動します

だから結局わたしが感動したいから行動しようとしてて

自分本位なんですよね

その結果誰かのためになれば最高って

 

ほんとこの話何回してるんだつって

「あのおじさんまた同じ話してるよ」

って言われるのかしら

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

じゃぁ炊き出しに来るなよ

は、おじいさんが怒っている理由にならないのです。

 

おじいさんとボランティアだけを抜き出してみれば

なぜおじいさんが怒っているのかという理由に着目できるかもしれませんが

ボランティア・ホームレス

という目に見えてしまった情報が

原因を突き放してしまったのです。

 

そうしてわたしは思いました。

 

 

 

 

このおじいさんは、ずっと怒っているわけじゃない

自分で悩んで、ぼーとして

その場では、自分とはかけ離れたものと見えてしまうかもしれませんが

自分たちと同じような場面もある

 

のであれば

わたしは

変なフィルターを通してみていただけであったのです

というアウトプットなのです

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

4月に色々してぇなつって話してますが

お金たまんないんで

もう少し日が伸びそう

 

4月までにしなきゃみんなに公言してるし!

つって

約束破りやろうというレッテルを買い

あわてず準備するという選択を選びました

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

おわり